オヤジでも青年でもなく「ららら科學の子」

ららら科學の子

ららら科學の子

主人公は50歳の少年

1968年に、とある事件で地下に潜り、中国に渡り、30年ぶりに東京に帰ってきた「50歳の少年」が主人公である。 主人公が1968年に起訴されていたら、19歳の未成年なので「少年A」と報道されていたのだろうか。


五木寛之が「青年は荒野をめざす (文春文庫)」を書いたのが、調べてみると1960年代半ばの平凡パンチ。 ザ・フォーク・クルセダーズが同名の曲を歌ったのが1968年。
法律上の分類である「少年」という意味ではなく、「青年」でもなく「少年」という言葉が選ばれているあたりに、若干の違和感。


中国時代の回想に、親を密告する「赤い子供」とか、「青年」という言葉が使われている。 政治に目覚めたインテリが「青年」なのだろうか? 

「革命と文学とジャズを語る大学生」=「当時の青年」というイメージが少々有ったのだが、本人の意識としては「少年」なのかぁ…
女と寝たことがないから「少年」だったのかな?


「政治」とか「革命」に意味を見いだせなくなったから、「少年の怒り」という時点にまで後退しちゃたのだろうかなぁ? 「少年」の政治観・正義感しか、主人公は持っていないようだ。
主人公が追われてる1968年の事件は、結局は政治的なものではなくて「少年の怒り」から行動だった、と意味づけられている。


1968年の時点で主人公の時計が止まっているのが、小説のポイントなんだろうな。 それ以降だと内ゲバの季節になってしまうから。
1968年以降の学生運動負の遺産は、電話の向こう側に隠されてしまい、主人公の目の前には現れてこない。 TVの重信房子逮捕ニュースとか、図書館の資料のなかに歴史として示されるのみ。 当時活動拠点だった場所でさえも、判然としないままだ。


ともあれ、現代の女子高生とというかメル友というかデートというか、お付き合いするためには、主人公はオジサンとかオヤジじゃなくて「少年」で無ければならないのだろう。
お付き合いも「boy meets girl」の、清い関係のままだし。

私は、小説の中の妹とほぼ同年齢なのかな?

それとも2つくらい上なのか?
作中で言及される映画のなかで、私がリアルタイムに見たのは1968年公開「2001年宇宙の旅 [DVD]」だ。(意味などわからなかったけれど。)
しかし、言及されている古い映画をほとんど見ていることに、我ながらちょっとウンザリする。 (加山雄三と日活アクションは見ていないけれど。)
「兄」の世代にそれなりに影響を受けて映画や本を読んだりしていた時期が、私にもあるわけで………愛憎こもごもだな。

妻に逃げられても、女には不自由しない

というあたりは、ハードボイルドの定石通り。
その他の展開も、まぁお約束通りの定石を踏まえているので、わりと安心して楽しめた。