【書評】中沢新一「はじまりのレーニン」

はじまりのレーニン (岩波現代文庫)

はじまりのレーニン (岩波現代文庫)

先に岩本安身氏の詳細な批判を先に読んでいたので、いささか変則的な読み方になってしまった。


知られざるエピソードを交えた「レーニン小伝」のようなものかな、と想像していたら、まったく違ってた。
レーニンの哲学を、古代ギリシア哲学から改めて位置付け直し、読み直すことは出来ないか、という本だった。
革命家・戦略家・政治家としてのレーニンではなく、あくまでも哲学者としてのレーニンと、そのビジョンを題材としている。

この本を読む人は、ただレーニンがよく笑う人であったこと、動物や子供にさわることが好きな人であったこと、音楽を聴くと喜びを感ずる人であったということだけを、予備知識としてもっていただきたい。そうすれば、彼の弁証法唯物論も、彼の革命思想も、彼の『党』のことも、自然に理解できるように、この本は書かれている。
 いや、むしろ、すべての先入観をすてて、ただそのことだけを予備知識として、この本を読んでほしい。

ソ連崩壊、そして銅像が撤去されたのを目撃している現在、そんなことは無理だな。
政治家・革命家としてのレーニンの描写は、最初の方で少しだけ触れられるのみ。
1917年暮れから翌年にかけてのドイツとの単独講和交渉について、マリア・スピリドーノワの弾劾に対し「哄笑」で答える記述くらいだった。

だが、レーニンはそのとき、生まれたばかりの革命の「子供」を育成することにのみ、全力を投入したのである。

敵や反革命勢力を容赦なく叩きつぶしていったという事については軽く触れられてはいるが、具体的な政治的発言については、その部分くらいしかなかった。

ロシアの歴史家ロイ・メドヴェージェフの1918年頃のレーニンについての評価がネットに有った。 スピリドーノワの発言が興味深い。

 一九一八年春、ロシアにはまだ本格的な荒廃はみられなかった。通信・交通・都市経済は比較的正常に機能していた。多くの企業が営業していたし、金融制度・商業制度は完全には破壊されていなかった。事態を改善することは可能だったにもかかわらず、ボリシェビィキは正しい問題解決策を見出せないでいた。急進主義が、というよりは、むしろ社会主義を理解する際の視野の狭さや教条主義が邪魔をしたのである。政権に就いたボリシェビィキは、大多数の国民の利益や要望に反する政策を実施しはじめた。


 役割の交換がおこった。農民すべてに身近な自由商業のスローガンを擁護したのは左右両派のエスエルであり、ボリシェビィキは自由商業に反対し、穀物のみならず全商品の売買に対する国家独占の維持・強化を訴えた。ボリシェビィキ中最も過激な者たちは、貨幣廃止や、さらには都市と農村の間で直接おこなわれる物物交換の準備を始めた。これは投機的な計画であり、実施の試みは完全な失敗に終わった。というわけで、左派エスエルの指導者マリヤ・スピリドーノヴァがレーニンはロシアにプロレタリアート独裁ではなく「理論独裁」を確立しようとしている」と語ったのには、十分な根拠があった。


『1917年のロシア革命』より
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/medvedev.htm

中沢にレーニンの哲学とビジョン、人柄のみを「予備知識」なしに救いだそうといわれても困惑するのみ。
ギリシア哲学から現代のニューアカまで博覧強記的に引っ張り出して、レーニンの哲学は歴史的必然性と超人的感性(?)のもとに生み出されたというような話になっている。
バタイユまで持ち出して、これはもう人類普遍の原理でもある、ということのようだ…

 歴史的必然を体現するというこうした絶対的確信が、ほとんど宗教的性格を帯び、いっさいの論理的説明の域外にあることを、改めて強調する必要があるだろうか。さらにそこから生ずる合法性なるものが、かつて“神の祝福を受けた”と称し、内在的必然を振りかざすことにより自己の権力を正当化していたキリスト教君主らの合法性と根本的には異なるところがないことを、改めて強調する必要があるだろうか。


エレーヌ・カレール=ダンコース奪われた権力―ソ連における統治者と被統治者 より

最近は「十月革命」ではなく「十月クーデター」という論調が、欧州では主流らしい。 その認識にたって、欧州の共産党は自己改革を進めていった。
日本共産党は、まだまだそこでの段階には到っていないようだ。一時期、すこしはユーロコミュニズムに接近はしたようだが、古参幹部が健在のうちはダメなのかな?


1931(昭和6)年10月号に書かれた「十月革命と婦人の解放」青空文庫に掲載されているが、それを読んだときの印象に似ているかな。
ソ連崩壊後に書かれた本とは、ちょっと信じがたい気がする。


「歴史はわれわれが犯さざるをえなかった残酷さを許してくれるであろう」とレーニンはゴーリキイに語ったそうだが……
中沢はこの本で、レーニン哲学史の中の「必然」「奇跡」という位置付をしようと試みているようだが、結局は講談というか「神話」になっている。


【参考】

宮地健一のホームページ
レーニン神話と真実1〜6
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/kenichi.htm#shakai20