中沢新一「はじまりのレーニン」の後書きを読む

はじまりのレーニン (同時代ライブラリー (333))

はじまりのレーニン (同時代ライブラリー (333))

同時代ライブラリー用に書き下ろされた後書き「唯物論のための方法序説」から読み始める。
題名とは裏腹に、なぜか日本の民俗学の話だったので驚く。
院生のとき「赤マタ黒マタ」の伝承を探るために南の島に渡ったときの思い出話から話が始まる。
調べてみると、中沢氏は東京大学大学院博士課程時代に『「赤マタ・黒マタ」祭祀の構造』と言う論文を書いているようなので、これが彼の出発点ということなんだろうか?


柳田と折口の見解に触れた後、伝承の起源についての調査報告が語られている。
「赤マタ黒マタ」でググると最初に出てくるサイトが、中沢の報告をほぼそのまま再掲しているようなので、コピペ。

儀式の始まり-翁考1
http://www.h6.dion.ne.jp/~asano/gisiki.htm

 今日「赤マタ黒マタ」と呼ばれているカミは、もとは前触れもなく消息を絶った村の少年の死霊である。 あるとき、一人の子供が山に入り行方知れずとなった。村人総出で探したが見つからず、ついに捜索は打ち切られ葬式も出された。ところが、この子の母親だけはどうしてもあきらめがつかなかった。母親はこの子がまだどこかで生きているような気がして仕方がなかった。夜となく昼となく心の中で子供に呼びかけた。するとある夜のこと、家の戸をホトホトと叩く者がいる。不審に思い、出てみると、なんと死んだはずのわが子が立っているではないか。驚いて呼びかけるとこう応える。

 『なつかしいおかあさん。ぼくは死んでこうして霊になってしまったのです。でもぼくはおかあさんに会いたい。だからこれからもときどきこうして会いに来ますね。』

 そう言うと声の主は消えてしまった。そんなことが幾度もあり、村でも評判となってゆくうち、村の知恵者がひとつの重要な事実に気づいた。死んだ子供の霊が母親のもとを訪れた年はきまって稲の実りがいい。ところが死者の霊が戻ってくる夏の季節になってもこの子の霊がやってこない年は不作に見舞われている。村の男たちは考えた。子供の死霊が毎年毎年、安定して出現する方法はないか。あの母親の子供に対する思いだけに頼っていては確実ではない。そこで、男たちが思いついたのが、仮面のカミの創造だったのだ。

 これからは男たちが毎年仮面をつけ、森の植物で全身を覆い、子供の死霊になりきって、村の中に出現するという儀式を執り行うことにしよう。そうすればもっと安定したやり方で、その年の豊作を約束することができる。

 こうして、その年から男たちが秘密のうちに仮面をまとい、森の奥からカミを迎える儀式が始まった。そのおかげで安定した稲の実りが約束されるようになった。

 ところが、子供を失った母親には、逆に悲しみがもたらされた。子供の霊を表象した仮面のカミがつくられたその年から、きっぱりと子供の死霊は母親のもとにはあらわれなくなってしまった。

 今日赤マタ黒マタの村を去って石垣島に移り住んでいるあるユタ(神占いの巫女)は、我々にとって恐ろしくもある得体の知れないカミのことを、いとしげに『あのひと』と呼ぶのだ。


普通は秋田県のナマハゲ、鹿児島県屋久島のトシノカミ、悪石島のボゼなんかと関連づけて論じられているものだと思っていたので、ちょっと驚く。 珍しい伝承じゃないかな、と思ったが…… なぜこれが後書きなんだ???


この死者の慰霊と鎮魂の話が靖国問題に絡んだりするならば理解もできるが、何故レーニン論の後書きなのだ?


うがった見方をすれば、子供の霊がレーニンの思想の比喩で、男だけ秘密結社が伝承する祭りがソ連で、ユタが中沢なんだろうか?


この本は最初94年9月に出版され、この後書きは同時代ライブラリーに納められるため98年1月に書き下ろされたもの。 その間にオウム・サリン事件があった。

こんなところで慰霊と鎮魂の民俗学的・人類学的な考察をするんだったら、オウムのために命を落とした人たちのための慰霊・鎮魂の方法をオウム(アレフ)にアドバイスすればいいのに、と思ったな。