中沢新一読書メモ 2

芸術人類学

芸術人類学

話が飛びまくりで、なかなか進まない。 適当に拾い読み中。
初出は2003〜2005年のいろんな雑誌・講演からなのだが、ひとつひとつの章の中でも時間・空間・ジャンルを超越して論じられてるため、どうも読みにくい。

数学や脳科学についての言及が、意外に多い。

緑の資本論

緑の資本論

911の衝撃を受けて書かれたものが中心。 初出は

  • 「圧倒的な非対称」すばる2001年12月号
  • 「緑の資本論」すばる2002年4月号
  • シュトックハウゼン事件」新潮2002年1月号に加筆
  • 「モノとの同盟」宗教への問い5(岩波書店)2000年3月刊
「圧倒的な非対称」

テロと狂牛病宮沢賢治かぁ。 「テロリスト=牛」なのか???と煽りたくなるな w
最貧国アフガニスタンの過激派vs超大国アメリカ、という論点になっているようだ。
この当時は、イラク・イランよりもアフガニスタンのほうに世間の注目が集まっていたというのを、いちおう頭の隅に置いておかないと混乱しそうになる。

現時点の、大量破壊兵器を持つ(持っていると疑われた)イラン・イラクvs超大国アメリカ、という構図で読むと、ちょっと違和感があるかも。 


宮沢賢治については、こっちの対談でも言及。
http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-taidan/taidan3.htm
宮沢賢治氷河鼠の毛皮」と911の関係について、語っている。


ジジェクの「安全球体」という言葉についても言及あり。
現実という砂漠にようこそ(1)(2)
原文 http://www.lacan.com/reflections.htm

「緑の資本論

一神教マルクス資本論」についての考察。 表紙にもあるように、中沢のイスラム論という感じ。
なぜキリスト教は資本主義を産みだし、イスラム教はそうならなかったかについて、貨幣の発生・利息を許容するかどうかを中心に探っている。


この本での資本論の読み方は、1980年代の広松渉柄谷行人浅田彰あたりを参考にしているような印象も。
キリスト教神学の三位一体論と文化人類学の「贈与」を結びつけているけれど……


一神教の教学もだけど、実際のイスラムの金融についての説明が抽象的すぎるのではないか?
現在オイルマネーを、どう運用しているのかについて、これでは分からない。


う〜む、多神教世界の日本で資本主義が発展しているのは何故なんだろうか? 日本が多神教世界だとか資本主義社会であるという前提自体がおかしい、ということなのかしらん? という疑問も

シュトックハウゼン事件」

911事件に関する「失言」事件についての記事。 
「あれはアートの最大の作品です」と発言したかのように報道され糾弾された、高名な作曲家を弁護している。
どうしても、オウム事件の頃の自身のバッシングに重ねているように見えてしまう。


とはいえ、「芸術家はすべてピカソのようにゲルニカを描かなければいけない」、といいかねないマスコミには辟易するわけだが

「モノとの同盟」

民俗学折口信夫のモノ・モノノケ・タマ考から始まって、古代ギリシャから、文化人類学現代思想まで…

狩猟時代の古い日本語をしゃべる人々に、あなたたちの幸福とはなんですか、という質問をしたならば、「それはあなた、さちの力によって、森のタマ(霊力)が動物のからだというモノをまとってあらわれたその動物たちを、うまく仕留めることができることでうよ。そうすれば、タマの霊力が私たちにも分け与えられ、生命は増し、私たちはこよない幸福(さち)を味わうこともできるのです」などという答えが、返ってくるにちがいない。
(p185)

なんていうか、この部分を読んで かなり醒めてしまったなぁ。「ちがいない」とまで言い切れるものなんだろうか。
狩猟時代って何時のことだ? 
縄文時代はこうだったにちがいない」「アイヌはこう考えていた」「マタギはこう考える」ならば、まだしも…

「古い日本語」というのも謎だ。 日本語の起源とか語源については諸説あるというか、トンデモが多いからなぁ。 そもそも「幸福」という概念が、狩猟時代の人に通じるのだろうか?

 近代の現象学の中から生まれたハイデッガーの現象論などに比較して、なんという豊かな広がりや深さを持った「”ある”の哲学」ではないだろうか。私たちはこんにち、そのような「”ある”の哲学」の感動的な表現を、ネイティブ・アメリカンの精神的伝統やチベットの仏教的精神や神道の自然哲学などのうちに、かろうじてみいだすことができるだけになってしまった。こんにちの世界で、物質的な増殖はいたるところで、おそるべき速度と量をもって進行しているが、その「物の増殖」を包み込む全体性の直感は失われてしまっているために、モノははじめから物でしかなく、しかもその物は商品となり情報となり貨幣となって、流通とネット上をスピーディに運動していきながら、めまぐるしく変態をとげながらも(商品−貨幣−商品−貨幣−……)価値としての同一性を絶対に失わない。
 このような世界を物質主義と呼んで、それに精神なるものをもって対抗しようとしても無駄なことだ、と私は思う。それよりも重要なのは、物質でもなく精神でもない、モノの深さを知って、それを体験することだ。モノは技術の本質をあらわす。そしてそれは同時に、宗教と倫理のはじまりにつながっている。精神と物質を分離した瞬間に、そういうモノは見えなくなってしまうのである。
(p188)

「体験」という言葉が、ちょっとひっかかるかも。 「トランセンデンタル(Transcendental)」との関係が気になるかも。