オーマイニュースの消滅 3
創刊1周年の2007年8月、編集部と市民記者の意識の差が改めて浮き彫りになった。
頑張っていた市民記者が問題提起。
なぜ市民記者は辞めてしまうのか - OhmyNews:オーマイニュース
http://news.ohmynews.co.jp/news/20070921/15316
- 24.2%、つまりおよそ4本に1本が、編集部員、もしくは編集部の依頼によるプロライターの記事。
- トップ記事の44%は編集部発
- 編集部+常連記者で8割の記事
というデータを示した上で
辛うじて市民記者の記事が半数を越えているのであるが、「市民みんなが記者だ」を合言葉に創刊された市民記者メディアとしては、いささか看板倒れではないだろうか。
編集部からの反論が掲載される
「なぜ市民記者は辞めてしまうのか」への異論 プロ記者がオーマイニュースを語りますよ
http://news.ohmynews.co.jp/news/20070927/15515
「市民メディア」という言葉に対する市民記者と編集部・プロ記者の温度差が興味深い。
blogが普及し、2ちゃんねるが定着している日本では、有る意味独特な「市民記者」への期待が無制限に膨らみすぎていたのじゃないかな。
外から見ていると、市民記者がなんで今更そういうことを言うのか、と思ってたな。
そもそも、韓国のオーマイネットはプロ記者集団がコアな記事を書いていた、という事実を市民記者は過小評価しているのじゃないか?
当時のネットでは、「市民記者の力で大成功・大躍進」という、ひじょうに偏った称賛だけが一人歩きしていた。
湯川鶴章さんが「ネットは新聞を殺すのかblog」で、2004年に本家の韓国を取材している。
ライブドアが目指す?韓国オーマイニュース
http://kusanone.exblog.jp/i22業界関係者として思うのは、市民記者の原稿は本当に使い物になるのか、ということだ。事実をどう確認するのだろう。原稿をどのように手直しするのだろう、ということが非常に気になる。
(略)答えは意外に簡単だった。「自分の意見を書いてもらえばいいんです」とミン氏。報道機関としての土台の部分は、実は35人のプロ記者集団が支えている。ハードなニュースや分析記事はプロ記者が書き、市民記者に期待するのは「エッセイ」や「書評・映画評」「メディア評論」などなのだという。
こっちの分析も同じような認識。
歌田明弘の『地球村の事件簿』: オーマイニュースが成功をおさめた理由
http://blog.a-utada.com/chikyu/2006/09/post_5bc1.html
オーマイニュースも、ほかの多くのネット新聞同様、「市民記者」の投稿を記事として掲載しているが、それらは自分の身の回りで起こったことや意見などが中心だ。オーマイニュースがアクセスを集めるためには、やはり「スクープ」が必要だった。一般からの告発などもあったようだが、そうした「待ち」によるスクープばかりでなく、常勤記者によって毎週のようにスクープを出したという。
人気コンテンツの一例
たとえば、米軍に対する反対運動が起きたとき、マスメディアも取材に来た。けれども、一回取材するだけで帰ってしまった。オーマイニュースは大学生を現場に張りつけて、一か月ずっとネットでその様子を伝えたそうだ。反米感情がネットで共有されていれば、アクセスは集まる。「市民記者と常勤記者のファンタスティックな結合」といった言葉をオ・ヨンホ氏は口にしていたが、こうやって差別性のあるコンテンツを生んだという。
韓国では「市民記者と常勤記者のファンタスティックな結合」が有ったけれど、日本では両者の距離が開くばかり。
2005年頃のネットジャーナリズム論
ウェブログ図書館 【第3次区分】 070 ジャーナリズム 新聞
http://library.jienology.com/archive.php?class=1070
ここから2005〜2006年ころのリンクを辿ると、いろいろ興味深い。
たとえば、こんなエントリーが見つかったりする。
「オーマイ」の場合も、社員としての記者を置かずすべて一般の市民記者による投稿で記事が集められ、読者による人気投票で紙面(画面)が構成される。
- 堀江社長と韓国のメディア - Arisanのノート http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20050303/p1
こういった「事実誤認」は、どこから出てきちゃったのだろうか?
日本版オーマイニュースの創刊準備blogでも、この点については「市民記者」幻想を振りまいていたような記憶があるけど。