【書評】創価学会の研究/玉野和志著/講談社現代新書 

このところネットを見過ぎて、いろんな意味でクラクラしている。 
そんなとき、ちょっとクールダウンするために最適な一冊。

創価学会の研究 (講談社現代新書)

創価学会の研究 (講談社現代新書)


著者も指摘しているけれど、創価学会について「落ち着いた」研究本というのは少ない。
最新の手軽な研究本を読んでおきたいな、とは感じていた。
だけど「この本を読まなきゃと」と思った大きなきっかけは、西村(新人類)さんのblogで紹介されてたからだな。
http://sinzinrui.blog.so-net.ne.jp/2008-12-06



この本は、創価学会の歴史を「日本における労働者階級の運動」のなかに、どういう位置付けらるのか、という視点から書かれている。


ちょっと引用が多くなってしまうが…

「はじめに」より

創価学会の歴史の中には人々の誤解や中傷を招くことがなかったわけではない。しかしその程度のことはある程度の組織であれば、どこにでもあることである。むしろ私はそれをことさらに問題視する日本の社会のほうに、あるおもしろさを感じたのである。人々はなぜ創価学会を嫌うのか。そこにわれわれ日本人と日本の社会を理解する鍵が隠されているように思えたのである。


というわけで、本書はいっぷう変わった書物となる。論じられるのはあくまで創価学会という宗教団体であるが、それを通して見えてくるのは、支配的な意味での日本社会や言論や学問のあり方である。言い換えれば、本書は創価学会とそれを取りまく世の中を社会学的に理解しようとするものである。


 したがって、本書は創価学会を告発するつもりも、美化するつもりもない。ちまたにはこの二種類の言説が溢れているので、結果として創価学会を論じたものとしては異色のものになるのかもしれない。

腰巻きが異常にでかいのも、異色だw



日本の労働運動について
「あとがき」より

日本では、ヨーロッパのように労働者が自ら労働者階級に留まり、世代的に再生産していくことを望み、それゆえ労働者階級全体としての生活の保障と向上を求め、国家の法制度の中でそれを権利として獲得しようとする意味での労働運動が力を持つことはついぞなかった。そのような、アジアやアフリカの経験からすると、むしろヨーロッパに特異な現象が起きるためには不可欠な、中産階級=ミドルクラスの一部が労働者たちの生活と社会にある種のリスペクトを抱いて接近し、これと連帯するということが、日本ではついぞ確立することがなかったのである。


日本の労働者は、知識層からの援軍も仲間との連帯もあてにせず、つねに激しい競争の中に身を捧げ、労働者としての生活から個人の努力だけで抜け出そうと努めてきた。それゆえ結果として貧しい生活から抜け出せなかったのはすべて自分が悪いのだと自らを責め、世間や国家に対して最低限の生活の保障すらも要求することをはばかってきたのである。その裏側には、確かにある程度の労働者が首尾よく中間層へと上昇することができたというある時期までの歴史的偶然が作用していた。創価学会に結集した人々は、そのような社会的地位の上昇を達成することのできた最後の労働者であると同時に、もはや上昇の道を望めなくなる最初の組織された労働者になるのかもしれない。

私はこの部分を、社会党共産党のインテリさん達の失敗の歴史、というように読んじゃったな。


創価学会の実利の一例。 インテリさん達とのお付き合い。

能力はあっても経済的な事情から上の学校に進めなかった多くの人々にとって創価学会における「御書」を中心とした言語の修得を伴う教学のもった意味は大きく、学校PTAなどで、大学卒の先生や、上の女学校を出た他のお母さんたちとも気後れせず、平気で話せるようになった。これも創価学会が重視する「実利」の一つだ。(P33)


戦後日本の労働運動と政治の歴史の一側面を、創価学会研究を通じて読み返すことが出来る良書だと思う。
まぁ、入門用の新書という限界はあるけれど。


当然のことだけど、島田裕巳への言及が多い。 
島田氏がどこかで反論みたいなのを書くらしいので、公明党の行方を考える上でも、ちょっとチェックしておきたいな。