ゲームと殺人

Interdisciplinary さんの「マスメディアの反応」 http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_31d8.html から新聞社説・論説のリンクをたどって、いろいろと読んでみた。
20年前からほとんど変わっていないな、と思う。
この手の「ゲームと現実を混同」論は、藤原新也が元祖だったりする。


孫引きもいいところだが…

香山リカさんの『テレビゲームと癒し (今ここに生きる子ども)』(1996、岩波書店)という本がある。その出だしで、88年7月8日に東京目黒区の中学二年生が両親と祖母を計画的に殺害した事件がとりあげられ、またこの事件に関して藤原新也さんが朝日新聞に寄せた論説記事が引かれていた。「虚構から現実を侵す──奇妙に『ドラクエIII』と一致」というリードのつけられたその記事は、私も当時読んで記憶に残っている。その論旨をこの本の中から孫引きしておこう。

 今回の家族殺害事件の報道に接したとき、藤原さんの脳裏にまず浮かんだのは『ドラゴンクエスト』の画面だったと言います。少年が用意した「金属バット、包丁、電気コード」という三種類の凶器。殺害プランの道連れにしようと声をかけた三人の友人。これらはいずれも、「長い旅の出立のとき、百種類もの武器の中から任意に数種類の武器を選んで身につける」「主人公の『私』は三人の友人を戦闘の旅の道連れにする」というそのゲーム──しかもとくにシリーズ最新作の『ドラゴンクエストIII』──の設定と似ていることに、藤原さんは気づきました。
 ……藤原さんは、その記事をこういう文章で結んでいます。
 「シミュレーション世代においては虚構の側からの現実の浸食がはじまっているのだ。つけ加えるならテレビゲーム画面の中の私(主人公)は死んでも何度も生きかえることになっている。ひょっとしたら少年は自殺の意味を知らないでいるのかもしれない。」
(pp.32-4)

http://www.d-tsuji.com/closet/note/000323.htm

大塚英志の批判

ついでだけれど、一応悪影響論の系譜をたどって言説分析のよーなものをやってた身として補足。かつて朝日新聞紙上にて掲載された(研究会でもたしか名が出た)藤原新也ドラゴンクエスト論評がある。
これはドラクエというもんの中身をいい加減な理解のまま勝手に少年事件と結び付けやがってばかやろー的な扱いをされることが多いわけだが、僕の知る限りもっともすばやくこの論評に対して真っ向から反論したのが今回の研究会で槍玉的な扱いを受けかねなかった大塚英志だった。


彼は藤原の結びつけがドラクエを全然理解しないまま行ったものだと指摘しつつ、その発想が「現実と虚構とを取り違えた危険な子ども」というイメージを強く喚起してしまっていると述べた。
そんな風に見られたら、子どもはテレビゲームじゃなくてこの「現実」の世界の中でこそ「危なくない子」をRPG、役割演技ゲームし続けなくてはならなくなってしまうだろーが、と。
http://homepage3.nifty.com/cafe-in-the-junkyard/archive/2006-04.html (開業は引用者)

1988年に14歳ってことは、1974年生まれかな。


いわゆるオタクや若者からは大反発をうけたけれど、「ゲームと現実の混同」はずっとテンプレとして語られ続けている。


1997年には

さあ、ゲームの始まりです

これで、もう覆せせない感じ、じゃないかな。


【追記】

そして、今回の事件では

香山リカの変節。 http://d.hatena.ne.jp/kaien/20080612/p1

ということになっている。

「日刊スポーツ」の記事の引用。

秋葉原の無差別殺傷事件で凶器となった「ダガーナイフ」。両刃で殺傷能力が高く、有名なテレビゲームでは武器である“アイテム”としても頻繁に取り上げられている。販売規制も緩く、ゲーム好きの面を見せる加藤智大容疑者(25)の関心をひきつけた可能性もある。ダガーナイフは、ホラー要素の強い大ヒットゲームソフト「バイオハザード」ではショットガンなどと並び、亡霊を倒す武器として登場。キャラクターの成長を楽しむ「ロールプレーイングゲーム」の草分け「ドラゴンクエスト」では、ゲーム内のショップで自由に購入することができる。中学校時代の卒業文集にゲームの美少女キャラクターを模した自筆イラストを掲載するなど、ゲームに傾倒していた様子をうかがわせる加藤容疑者。精神科医香山リカさんは「非常に屈折した思いなのだろうが、ゲーム・アニメ文化の“聖地”で、あたかもゲームの主人公のように振る舞ったようにも見える」と分析する。