ブロガーvs論壇、または「ジェノサイドを前に論壇は無力か」
東氏の最初のエントリーは宮台真司批判として書かれたモノらしい。
だから、そもそもどーでもいいような論壇の内輪向けエントリー、という印象。
東氏独自(でもないのか?)の「動物化」なんて言い方は、論壇外には通じていないと思う。
いずれにせよ、「アウシュヴィッツはナショナリズムとは別の話だ」というのがfinalventさんの主張で、その両者は深く関係しているというのがぼくの主張で、そここそが大事な相違点です。ほかは枝葉末節にすぎません。あとは読者が判断するでしょう。
ええ、その相違はそのまま残ります。私は「アウシュヴィッツはナショナリズムとは別の話だ」と考えています。広義にも別だし(ジェノサイドはナショナリズムから起きるとは限らない)、狭義でも(この点は文化差と白バラで少し言及したとおりです)。
ということで、とりあえずは収束した模様。
この件に関しては「uumin3の日記」 http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20080421#p2 では
…東氏に対しては(アーレントの他の著作での記述を挙げて反証されるとかいうことがない限り)、一読者の判断として軍配は上げられないということですね。
という評価がされています。
私も同感。 東氏のエントリーは日本の論壇内部でしか通じない内向きな言葉でしかないと思えた。
大澤真幸著「ナショナリズムの由来」でも読んでくれ、と東氏はいうわけだが…
2007年11月7日 読売新聞での大澤氏のインタビュー
では、我々はどうすればいいのだろうか。大澤さんは「愛」を例に挙げながら話を続ける。
「誰かを深く愛せば、相対的に他の人には無関心となってしまう。それはナショナリズムと同様に『狭量』と言われることかもしれないが、多文化主義のように『すべての人を愛す』という方が、よほどうさんくさい。その両側を横断する何かを見つけ、制度としていくことが、これからの課題でしょう」
具体的にいえば、パキスタンやアフガニスタンで井戸を掘る医師、中村哲さんの活動が、つまり、日本人であるという意識を持ちながら、縁もゆかりもない人たちと共に汗を流すという偶然的な関係性を引き受ける生き方が、ヒントになるのではないかと考えている。「究極的な偶然を必然として受け入れる。それが、偏狭なナショナリズムを超えるきっかけになると思うんです」
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20071107bk02.htm
大澤真幸さんの「ナショナリズムの由来」、異例の売れ行き
この本を読めば第二第三のアウシュビッツは防げる、とでも言いたいのだろうか?
なんだかなー この大澤氏のインタビューと東氏のblogのガキの写真は通底しているように感じる。
どーなんだろうかなぁ。
finalvent氏は現在進行形のダルフール紛争を「ジェノサイド」の問題として何度も取り上げている人である。
そういう論者に対して「アウシュビッツとナショナリズムは深く関係している」という言葉をぶつけても、両者の見ている世界がまるで違うので、全くかみ合っていない。
制度や国策や国連や国際関係のことを見てるfinalvent氏と、日本の論壇内部を向いている東氏、という感じ。
東浩紀の渦状言論
http://www.hirokiazuma.com/archives/000394.html
http://www.hirokiazuma.com/archives/000395.html