アメリカの代理母達の言葉

1990年代のアメリ代理母事情をメモしたサイトから引用。
文献表は引用もとサイトに有ります。 http://www.arsvi.com/d/r01006.htm


1980年代の本からの引用が中心なので、おそらく代理母依頼人精子と自分の卵子で人工授精を行い出産したサロゲートマザー達の証言。*1

あのときの私のおもな動機は、利他心だったようだ。
私のまわりにはずっと不妊の女性がいた。


まず、子どものころ、大好きな伯母は不妊だとはけっして口にしなかったが、その美しい顔には空しさの表情が刻まれていた。
そのあと高校時代には、子どもを産めないとわかった親友がいた。彼女はだれも結婚してくれないだろうと思いつめていた。


私が新婚生活を迎えるころまでは、4、5人の友だちが不妊検査を受けていて、どうしたら夫に子どもを産んであげられるか、「よい妻」になれない不適格者なのではないか、というようなことばかり話していた。

物質的な所有欲をみたすのが夫の仕事で、家庭を誇りにし、そこを子どもでいっぱいにするのが私たちの仕事だと、だれもが知っていた。


カトリック信者の友だちは、少なくとも4、5人の子どもを産むのを期待されていた。
彼女たちは夫を失望させただけではなく、両親やローマ法王の期待にも背いたのだ。
不妊の友だちはまもなく自分のことを「できそこない」と言うようになり、私は、子宝をお恵みください、とひたすら神に祈った。


 1969年までに私は2人目の子どもを産んだが、妹は子どもをもてないということがわかった。
数年後には、兄夫婦は婦人科医に通うようになり、ベビーベッドはいつまでもからっぽのままだった。


このころには、私は不妊女性には何か解決策が必要たと強く感じるになっていた。
1970年ごろだっただろうか、友だちのかわりに赤ん坊を産んであげられないものかと、夫に話したことがある。私はシスターフッドからそうしたいと思った。


不妊の男性には手助けをしてくれる精子提供者がいる。それなら、どうして、不妊女性には肩代わりの方法がないのだろうか? 彼女たちはそれを期待しているのではないか?
(Kane[1989=1991:244-245])

面談で、どうしても子どもがほしくて、あらゆる手をつくしたけれどだめだった人たちの話をたくさん聞かされていると、もう同意しさえすれば聖者になる、これは命の贈り物、人間が人間にしてあげられるもっとも無私の行為だと思わされてしまいます。


子どもは依頼した夫婦の子どもであって、あなたのではないと言われても、こんなすばらしいことができる、この人たちを苦しみから救ってあげられる、と考える私のような女はいるのです。
(パトリシア・フォスター、Klein ed.[1989=1991:242-253])

  • 斡旋業者やカウンセリングについての不満

「会社がやる「カウンセリング」は…見当違いで、不適切きわまるカウンセリングだった。
私は誤った情報を与えられ、「こんなすばらしいことができるのは、喜び以外のものものではない」と感じるだろうと、言われたのだ。…(p.236)


…産みの母親が味わう悲嘆の過程や、赤ん坊を渡したあとに私が感じるはずの長期にわた否定的な情動については、一言も話してくれなかった。妊娠中に赤ん坊とのあいだにできる関係の深さや、赤ん坊を連れていかれたときに感じると思われる大きな喪失感や悲しみについては、何一つカウンセリングされなかった。
(ナンシー・バラス、Klein ed.[1989=1991:236-237])

養母となる女性は、娘と私はこれからもずっと拡大家族の一員であり、生まれる子どもに会ってもかまわないと、たびたび私に請けあった。


子どもに会う法的な権利、ましてや子どもの消息をたずねたり写真をもらったりする権利すら私にないとは、センターは一度も言わなかった。
写真はもらえるだろうと言った。義母は写真や手紙を送ると言った。息子が5カ月になった1978年2月以来、夫婦か一度も写真は送られてきていない。


いま私は息子に会うことも抱くこともできない──ましても拡大家族の一員などではない。
(ナンシー・バラス、Klein ed.[1989=1991:237])

  • 子供への想いと罪悪感

代理母会社はいまだに、赤ん坊は夫婦の子どもだと言いつづけています。
でも、からだは自分を主張します。頭も心ももう納得しなくなる。


この小さな人間は自分を主張します。動くのです。1日24時間、ここにいるよと告げているのです。


この小さな人間がだんだん成長してゆくのがわかっているのです。でも、おまえは代理母だと言われる。代理母とは「代用品」。
でも、そんなことあるだろうか? 卵子はどこからきた? そして、この赤ん坊の46本の染色体は? 男からもらうのは23本──たった23本だと言うのに。


心が自分を主張するから、感じはじめたこの罪悪感! 
大きくなってゆくお腹に手をあてれば、それに応えるこの小さな人間。健康な赤ん坊でありますようにと、毎晩祈る。
自分の感情がこわいから、心の奥底で、赤ん坊もママもどうにもならないと知っているから、泣きながら眠る。赤ん坊と引き離される分娩の時がきませんようにと祈る。


やがて、その子は生まれる。父親がへその緒を切ったあと、その子をさしのべて抱かせてくれる。震える手で泣きはじめるその子の顔をみつめて、背中をなで、だいじょうぶ、ママはここにいるわ、と安心させる。


そのことにはもう、この子は自分の息子、手放すことなどできないのがわかる。でもそのとき、赤ん坊を愛するがゆえに罪悪感を強く感じる。
(パトリシア・フォスター、Klein ed.[1989=1991:242-253])

私の息子は、生まれたときに私に捨てられることを願ったわけではない。
私が会ったこともない男とほかの州で暮らしたいと、決めたわけでもない。


現在、彼の父親は、彼にはウィスコンシン州に産みの母親と二人の姉と一人の兄がいることを話さないでいる。
私の息子の父親は妊娠には中絶を要求して私たちを引き離す権利をもっていたし、いまでは子どもが21歳になるまで引き離しておく権利をもっている。


いつか私の息子は、自分が新車一台分の値段で買われたことを知り、その重荷を背負って生きていかなければならなくなるかもしれない。
(Kane[1989=1991:251-252])

  • 子宮の切り売りだ、という批判

代理母産業は売春宿型のうちで女性たちに子宮を別売りさせる。
母性は、いまや実験と権力のために子宮へ手を伸ばしたがる科学社の手を通して、女性の売春の新分野となりつつある。
医者は生殖の代理店となって、受精と生殖を支配し管理することができる。
女性たちは昔から売春婦が性を売り物にしてきたのと同様に、今度は生殖能力を売り出すのだ。
しかもその上、性行為はしていないから売春婦という烙印を押されずに済む。
(Dworkin[1983]、Ince[1984=1986:87]に引用)

*1:現在は、代理母とは遺伝的につながりの無い受精卵を子宮に入れ出産するホストマザーが主流になっている。