「フラット革命」の中の「公」とは?

<公>という概念は、この本のキーワードである。 

 新聞やテレビも、自らを<公>と恃む自負があり、そうした責任感もあった。
 しかしいまや、第一章で書いたように、新聞の<公>はいったい誰を母集団にしているのかがきわめて不明確になっている。新聞の<公>は世論を代表していない、と考える人が政治の世界にも、そして人々のあいだにも急激な勢いで増大している。
 ではどうやってマスメディアの<公>が消滅していくとき、いったいだれが<公>を保証するのか? 政治家なのか? それとも人々なのか?
政治家が<公>を独占して担保してしまうことの危険性は、昔から繰り返し語られてきた。その危険性は「独裁政治」という言葉で呼ばれている。
 人々に<公>が担わされてしまうことにも、同様に多くの危険性が生まれる。ファシズムがそうだし、衆愚政治という言葉もそうだ。
では、マスメディアのパワーが減じていったあとに、本当に新たな<公>が生まれてくることは可能なのか?
(P191〜 192)

佐々木氏の<公>という言葉は「権力」とか「法」ともは別のモノらしいが、なにを指しているのかよくわからない。
 このくだりを読んだときの、厨房的な感想。
「そのとうり。だから、現在は三権分立になっているのじゃないのか?」


たびたびの引用になるが「2ちゃんねるはなぜ潰れないのか? (扶桑社新書)」 から

佐々木 西村さんは「インターネットには市場原理しかない」と言っていますよね。実際に市場原理はあるんですけど、そうすると公共性はどうするんだ、という話がついてまわる。マスメディアというものは100のうち嘘は5くらいしか書いていない。一応何か失敗するとお詫びの言葉が出るなど、公共性がある。けれども、2ちゃんねるやブログには公共性がないわけですよ。インターネットが普及し、マスメディアよりも2ちゃんねるの方が大きくなり、みんなが情報の発信や需要をする時代になると、どこに公共性を持てばいいのかわからなくなるという微妙な問題が次々出てくるんじゃないでしょうか?


西村 公共性がなくても法律さえあれば充分だと思いますけどね。 (中略)


佐々木 究極的な世界はそうなんだけど、(以下は前エントリーの引用部に続く)

佐々木氏のいう<公>とか「公共性」ってのは、具体的には何を指しているのだ? 
なんだか、ものすごく重大なもののようなのだが、「倫理」とか「正義」か「情報の正確さ」という言葉に置き換え可能じゃないのか?


「公私相背」という韓非子の一節を思い出した。

昔者蒼頡の書を作るや、
自ら環らす者之を私と謂ひ、
私に背く之を公と謂ふ。
公私の相ひ背くや、乃ち蒼頡固より以に之を知る。
今以て利を同じくすと為すは、察せざるの患ひなり。
(五蠧第四十九より)

蒼頡」は伝説上の人物、黄帝の仕官とされ、文字を発明したという。
「私」の古字は「ム」である。
自分の者に境界線を引くということである。
また"背く"は「八」で表された。
この説は、現在の学説では正しくないとされているらしい。

http://members.jcom.home.ne.jp/diereichsflotte/HanFeizi/PrivateIsNotDifficult.html


「新聞の<公>はいったい誰を母集団にしているのか」と佐々木氏は論を進めているが、これは「公私混同」しているのではないだろうか?