責任を問われるべき者は誰?

まだ、しつこく伊東乾のさよなら、サイレント・ネイビー ――地下鉄に乗った同級生 より

「平泉登が、天皇のための自己犠牲で、手本にしたのは、維新の志士だった真木和泉と、決定的なのが、後醍醐天皇のために自決した楠木正成の2人なんだって。<湊川の合戦>で、最後に残った73騎、すべて討ち死にする<楠公精神>ってのが、近代科学技術と偶然結びついて……いや、必然かもしれないけど、ともかく結びついて、ひとつの枠組みになったとき、特効も玉砕も事故加速し始めて、誰も止められなくなっちゃったんだよ。これを東大がきちんと認めたり、こういうことをどうやって食い止めるかなんて、きちんと考えたことがあると思う?」(p280)

「医学部は医学部、工学部は工学部、みんな無関係。国体思想は文学部、政治は法学部。軍は陸大海大出身の軍人、みんなバラバラ。誰が何をやったか、みんな藪の中。しかも戦後はバラバラのままミソギして、きれいさっぱり水に流しちゃった……。平泉は神官で、水浴びでミソギして、2.26事件も東大も陸海軍も、みんな忘れちゃう<局所最適、全体崩壊>。完全にオウムとそっくりじゃないか。いったいいつまで何同じこと繰り返してんだよ……何てことだ……(……こんなことでセンチメンタルになるはずではないのに、なぜ俺はこんなところで泣いているんだ……)」
「大丈夫?ねぇ、落ち着いて……」(p281)

戦後処理が「オウムとそっくり」ではないか、という指摘には私も同意するところはある。
では伊東乾氏は、オウムにおいて平泉登にあたる人物は誰だと想定しているのだろうか?
オウムでは、いろんな例え話をいろんな仏典から説法に取り入れてはいたけれど、それを教義にまとめ上げたのは麻原こと松本ただ独りの力だったのだろうか。
中沢新一虹の階梯―チベット密教の瞑想修行 (1981年)とオウムの教義の関係についてはスルーなんだろうか。


まぁ、それよりも、伊東乾のオウム観がよくわからない。
森達也との対談でも、オウムを「産み」、「迫害」する日本社会の問題については饒舌なのだが、そもそもオウムとはどんなモノであると考えているのだろうか。

 ところが、オウムの事件が起きたときに、ほとんどの識者やジャーナリストは、「本来、人を救うはずの宗教がなぜ人を殺すんだ」と発言しました。とても稚拙なレベルです。でも、この位相で、オウムへの解析は始まってしまった。

伊東 大間違いだ。宗教くらい殺人を正当化してきたものは歴史的にもないのに。
(月刊論座4月号)

事件当時、オウム信者が「虫も殺さない我々が、事件を起こすはずがない」と言っていたのを忘れているのかな?  それに、事件当時森達也のいうところの「稚拙」ではないレベルの発言をした「識者」は、ある程度いたはず。


それも問題ではあるけれども、伊東乾の発言がどこか中沢新一に似ているような気がするは…気のせいだろうか。 伊東乾の宗教についての発言は、まだあんまり公になっていないのでよくわからないが。


諸君 1995年 7月号「オウムとは何だったのか」の浅田彰中沢新一の対談で、中沢はこう語っている。 http://www.isc.meiji.ac.jp/~betupu/snshihan.html#2

中沢・ オウムの事件と太平洋戦争では「戦後処理」も似ているところがあります。いま、オウムの事件について皆が何を言っているかというと、悪かったのは教祖と一部の幹部で、一般の信徒は犠牲者だという。これは戦後の日本人の論理と同じですよ。

中沢・ 今回の事件でなかなかすごかったのは、テレビのスタジオに正義の味方がずらっと並んで、極悪のオウム真理教とそれに加担したという宗教学者たちをバンバン攻撃したことです。攻撃されたその一人は、まあ僕ですが(笑)。

伊東乾を先取りするがごとく、中沢新一は日本の戦後処理とオウムの戦後処理を似たものとして考えていたようだ。
自身のオウム事件での立場を、どのように認識しているのか、いささか疑問でもある。
中沢新一は1995年頃には、それなりに総括しようとしてていたようだが…現在はどうなのだろうか


# さて、これでやっと島田裕巳著「中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて 」の話に移れそうだ。