元祖「クネクネピアニスト」

Schwaetzerさんのエントリーを読んで、明治・大正のころから、いわゆるクネクネピアニストは大人気だった、というのを思い出した。
日本のクネクネピアニストの発端は、楽聖ベートーヴェンのイメージと当時のピアノ奏法が影響していたはず。

一般の人でもすぐわかる、音楽における精神主義の悪例は「クネクネピアニスト」。日本のピアニストはたいてい体をクネクネさせて弾く。心をこめてとか教えられるからだと思うんだけど、だけど心は音にしないと意味がない。


2008-01-14 - おしゃべりSchwaetzerの飲んだくれな毎日
http://d.hatena.ne.jp/Schwaetzer/20080114


明治末・大正時代の白樺派が、学校の音楽室にあるような、髪がぐちゃぐちゃで怖い顔をした楽聖ベートーヴェンのイメージを盛んに賞賛していた。
寒い部屋でストーブもなしに、爪が割れ鍵盤が血まみれになるまでピアノの練習するような情熱がなければ、ベートーヴェンの精神が弾けない、というような雰囲気もあったようだ。


当時、日本のベートーヴェン弾きの第一人者とされていたのが久野久という女性奏者。 『後期ソナタを「征服」した《日本随一のベートーヴェン弾き》』と評されていた。
彼女が日本の「クネクネピアニスト」の始まりじゃないかな?


ウィキペディアには載ってないなぁ。 こちらのblogが参考になるかな

Le Journal de La Princesse frivole
久野久の墓  http://journaldepf.jugem.cc/?eid=727
マリとユリ 久野久に出会った二人の少女 http://journaldepf.jugem.cc/?eid=728


久野久は和服で演奏していた。 盛り上がると、櫛は飛び、裾は乱れるという汗まみれのスタイルが評判だったらしい。


かつて彼女からピアノの教えを受けた宮本百合子は、そんな恩師との思い出を小説にかいている。
道標」という小説の中に、「川辺みさ子」という名前で出てきます。


主人公「伸子」が「川辺みさ子」の演奏を聞いたときの思い出のところを引用。 

 どこかはらはらしたところのある思いで伸子は川辺みさ子がウィーンへ立つ前の訣別演奏会(フェアウェルコンサート)をききに行った。それはベートーヴェンの作品ばかりのプログラムで上野の講堂にひらかれた。


一曲ごとに満場が拍手した。そして熱演によって彼女の櫛が、またふりおとされた。伸子は、座席の上で苦しく悲しく身をちぢめた。せめて、日本で最後の演奏会であるその日だけ、川辺みさ子の櫛はおとされないように、と伸子はどんなに願っていただろう。川辺みさ子のピアノは情熱的で櫛をふりおとしてしまうそうだ、という噂はいつかひろまっていた。その様子を、きょうは現実に見られるだろうかと半ばの期待でステージに視線をこらしている聴衆が、川辺みさ子のゆるやかな束髪のうしろから次第にぬけかけて来た櫛に目をつけ、やがて音楽そのものよりいつその櫛が落ちるだろうかという好奇心に集中されてゆくのが、聴衆にまじっている伸子にまざまざと感じられた。


川辺みさ子が糸桜の肩模様の美しい上半身をグランド・ピアノへぶつけるようにしていくつかの急速に連続するコードをうち鳴らしたとき、彼女の髪のうしろからとんだ櫛はステージの上にはずんでおちて、ころがった。瞬間の満足感が聴衆の間を流れた。


 演奏はつづけられたが、伸子は、どうせとんでしまうものならステージへ出る前に、なぜ櫛なんかとって出て来ないのかと、川辺みさ子自身の趣味をうたがった。伸子がごく若い娘の作家であることを娘義太夫にあつまる人気になぞらえて、娘義太夫のよさは、見台にとりついてわあーっと泣き伏す前髪から櫛がおちる刹那にある、佐々伸子にこの味が加ったら云々と書かれていたのを読んだことがあった。伸子はそれを忘れることができず、意識してそれに類するどんなその注文にも応じまいとかたく決心していた。


伸子のそのこころもちは、川辺みさ子の演奏会と云えばステージにおとされる櫛を期待させているような点に伸子を妥協させないのだった。彼女の天才主義に疑問をもちつづけた伸子は、櫛のことから、芸術家としての川辺みさ子と自分のへだたりを埋めがたいものとして感じた。稚いながらも川辺みさ子に対しては伸子も一人の芸術にたずさわるものとしての主張をもちはじめていた。


http://www.aozora.gr.jp/cards/000311/files/2012_7798.html
(改行は引用者) 

主人公はモスクワ・ワルシャワ・ウィーンで本場の演奏を聴き、自身が恩師「川辺みさ子」にピアノを習いていたころを回想しながら、自身がウィーンで客死した恩師と同じ年齢になっていることに、深い感慨をいだいています。
大正・昭和初期の日本のクラシック事情なども、興味深い。


技術的なことをいえば、当時の日本のピアノ教育では「ハイ・フィンガー奏法」を教えていたらしい。
この奏法だと、大きな音は出せるけれど、微妙なタッチで演奏するのは難しい。 身体を揺すらなければ、演奏に表情をつけることが出来なかったのだろう、と中村紘子が指摘している。
ピアニストという蛮族がいる (文春文庫)
チャイコフスキー・コンクール―ピアニストが聴く現代 (中公文庫)


桐朋学園出身のいわゆる「井口派」一門が、そういった奏法を昭和40年代頃まで教えていたらしい。
井口基成