「局所最適、全体崩壊」は不適切

伊東乾@島田裕巳氏と対談時

さよなら、サイレント・ネイビー ――地下鉄に乗った同級生
本書のキーワード「局所最適、全体崩壊」は、開高健賞選考委員のほとんどが言及している。
著者も気に入っているようで、論座四月号の森達也氏との対談でも、現代の日本を分析するためのキーワードになっている。


オウム真理教が、どのように「局所最適、全体崩壊」だったと論じられているか、ちょっと検証してみる。


伊東氏は、同級生(豊田)がビデオや教団出版物のなかで物理学のエキスパートとして、プラズマ兵器の解説しているのを引用した後、このように論じている。

 ここで豊田が述べている内容は、物理学の常識的な内容にすぎない。オウムのパターンである「局所最適、全体崩壊」の典型がここに見られる。ヨーガの修行も、物理学の応用も、局所局所では通常の物が使われながら、全体として描かれる像は完全にクレイジーなものになってしまう。プラズマ兵器であるマイクロ波やレーザーによる「攻撃」についてのやり取りも、科学を知るものが見れば実に荒唐無稽だ。
 マイクロ波やレーザーによって、小指の先ほどの領域に「プラズマ状態」を生起させて、「核融合発電」を実現させようとする取り組みが20世紀後半以来、半世紀以上にわたって世界中で試みられている。実用化にはまだ半世紀以上の時間がかかるだろう。「原理的に可能」な事柄を、実践に堪える大規模兵器にまで開発する「現実化」の時間の観念が、オウムにはまったく欠如している。オウムは、原理的に可能なものはすべて、すでに米国が実用可能に開発している、と断じる。そしてそれを防御するにはどうしたらよいかという原理について、豊田は「局所最適」な物理を語らされる。だが、それが現実に大きな規模で可能か、という観点はオウムに欠如している。局所の「原理」に注意が集中して現実的な「スケール」という意識が麻痺しているのだ。
(p171〜p172)

論の進め方が、ちょっとおかしい。
『「スケール」という意識が麻痺している』のは確かだが、「原理」そのものは、どこも崩壊などしていないのではないか?
全体の原理は「最適」だし、局所も原理だけならば誤りではない。 ただ局所の「現実」は、いまだ原理通りに実用化されていないだけだ。
オウムの論理では「全体は真理、局所は最適になるように努力中」となっていたはずだ。


「局所最適、全体崩壊」というのは、オウムを外から眺め、今の時点だからこそ言えることだろう。
オウム(アーレフ)内部からみれば、いまだに「全体は真理」だろうし「局所は、過去のあの時点では崩壊していたかもしれないが…現在修行中」なのではないか。


そもそも過去のオウムで「局所最適」な事例は、どれだけ有ったのだろうか。 TVのディベートで論破されなかった、という「伝説」の印象に引きずられ過ぎではないのだろうか?


早川の手記私にとってオウムとは何だったのかに有るサティアン建設のエピソードが興味深い。 実社会で実務経験のある早川にとっては、サティアン建設計画は「局所崩壊」を予感させるものであったようだ。 素人の信者による無理な予算・工期での無謀な計画で失敗するのではと心配していたが、現実にはそれなりのものが完成してしまった。 そのため早川は、信仰をさらに深めてしまう。


科学庁では潤沢な予算や機器をつかい、様々な実験を行っていたが、現実的な結果が出たものは少なかった。(その中にサリンが有るのだか)


オウム内部では現実の「局所最適」は、それほど重視されていなかったのではないか?
局所では最善を尽くすことのみが求められ、その現実的な結果が最適であるかどうかは二の次だったように見える。 
結果が最適であったかよりも、どのよう克服しようとしたかについての評価を教祖が下していたのだろう。 そして信者自身の自己評価は、退けられていたようでも有る。
また、敢えて失敗させるようなことも、修行として命じたりもしている。


「ムッタ・デーヴァ氏インタヴューPart 6」(2002年8月14日〜11月28日)のマハームドラーについての解説が参考になる。

旧教団では、グルが弟子に「わざと失敗するはずのことをあえてやらせる」という側面がありました。それはもちろん、煩悩があるがゆえに失敗し、あるいは煩悩があるがゆえに苦しまなければならないのです。しかし、それによって、自分にそういう要素があることを知り、またそれが弊害であることを知ることができます。


だから、オウムにしろ、アレフにしろ、「失敗したら、その人はそれで終わり」という世間的風潮とはかけ離れたところがありました。むしろ、失敗して、そこから精神的に学び、成長する人ほど称賛されます。成功する人は「功徳がありますね」ということでもちろん称賛されますが。
http://www.geocities.jp/mined_rhcp/interviews/deva_6.html


「局所最適、全体崩壊」と思っている信者や元信者は、存在するのだろうか。
オウムの、暴走した論理展開は「全体は真理、しかし局所が現在最適じゃないのは現実が間違っている」ではないだろうか?


オウムの教義では「全体真理」だから、局所の現実はどうでもよかった。むしろ、局所では「嘘も方便」がまかり通っていたように見える。


『「全体真理、嘘も方便」という組織』が、私のオウム観だな。