伊東乾氏が かたる 拉致問題

伊東乾氏は「真実」を追求することよりも、裁判で同級生の弁護を最優先にしているように感じられる。 
こうあって欲しいという「真実」を追求するあまり、「事実」が後回しにされてしまっている。
伊東氏の目標は、ワイドショーに出て「オウムはかわいそうな被害者」という世論を創り出しすことなんだろうかなぁ。


論座4月号掲載の伊東乾氏と森達也氏の対談は2006年11月13日に。
宗教と現代がわかる本〈2007〉 での島田裕巳氏と伊東乾氏の対談は2006年12月26日に行われています。
話題は多岐にわたっているので、とりあえず「拉致」という言葉の使い方に注目してみます。
#発言を切り貼りしたり、順番を入れ替えたりして、なんか印象操作だと言われそうな気もするけれど。


さよなら、サイレント・ネイビー ――地下鉄に乗った同級生の第6章は「拉致  騙された罪の重さ」と題され、出家の様子が著者の分身と相棒との会話で書かれています。


出家後に残された豊田の不完全な修士論文をみながら

「でしょ。いい加減というか、おざなりなままなんだ。 この表紙のきれいな文字を見てごらん。こういう字を書く人がこんなバラバラのまま提出して、そのあときちんと直していないってことは……」
「……なんか分かる気がする。これ書いたあとに<出家>しちゃったんだね」
「あと、っていうより、書いて直後に下宿引き払って所在不明になった」
「…………」(豊田本人は、修論の乱れと出家とに直接の因果関係はない可能性がある、としている)

(p206)

括弧内も本のママです。 「小説」というのにそもそも違和感があるが、その中に校正(?)をそのまま残すと言うのも不可解だ。 事実より小説の流れを重視したのかな。
実物の表紙の写真くらい欲しい。

この章の最後の方。

私が興奮して一人で喋っているうちに、相棒はだんだんうつむいてしまった。
「……豊田さんなんだかかわいそう……」
「前にオウムと一緒にしたって怒ってたけど、分かってもらえたかな?」
「……分かるよ。なんか、ひどいね。最低だね」
(p219)

(略)1年半ほど彼の様子が分からなかった。この経緯を体験している私には、マスコミから法廷まで、一貫して言われ続けている「自分の意志で出家」という表現に、どうにも強い違和感を感じる。これはひとつの「拉致」なのだ。普段の彼とぜんぜん違う。すべてマニュアル通り、「計画出家」させられたことが明白だ。なぜ、法廷で「自分の意志で出家」を言わせるのか。「責任の所在」を限定して、本人にすべてを引き受けさせるための便法にしか、私には見えない。
(p221)

この後は「真実」を明らかにするべきだと、激しく主張しています。
しかし「真実」や「事実」よりも「小説」としての効果を狙っていますね。 
小説仕立てで「違和感」を広くアピールしているのだろう。 私は小説の中の相棒みたいには分からなかったけれど。


ラノベでも、これだけの「……」は使わないぞ、と思いつつ
まぁ、感銘を受けた人もいるみたいだけれど。



島田氏は、対談の中で「拉致」という表現について、何度も重ねて質問しています。
伊東氏の答えは、妙に長く煩雑だ。

島田 かなり強制的だったということなんでしょうが、豊田氏本人はそういうことを公言しているんですか。拉致という言葉がこの本の原稿に出てきたときに彼はどう反応したんですか?


伊東 「拉致に関してですが」と、言って「傍証程度にしかならないと思うけれど、いわゆる実行犯の中で、二年三か月しかいないという、あの時期に集中的にオルグされていたということは確かだ」と本人が言っています。「自分も引っ張られたって感覚はもってるし、自分の口からは言えないけれど、言ってくれて有難い」ってことみたいで。

『ってことみたいで』ですかぁ!
そのほかの部分。

そういう表現をとっています。

拉致という言葉を敢えて使っているのは、北朝鮮の問題で一般の人にとってどういう語感を持っているかを考えたうえで、ジャーナリスティックな用語として使っています。目星をつけて引っ張られたのは間違いないので、それを正確に受け取ってもらえる用語として。

死刑宣告の判決においても、「自らの意志出家し自らの意志で犯行におよんでいる」と裁判官が心証で言っている。よく言えば心証だけど、もしかしたら「あてずっぽう」かもしれない。裁判官が一か0か判断つかないとき、風見鶏みたいな格好で「一ですね」といってしまう。その根拠は世論が納得するかどうかなんです。でも、世論は実はワイドショー的なメディアがつくっている。これじゃマッチポンプです。


森達也氏との対談では、どう語っていたかといえば

 オウム事件の際、小林よしのりさんと江川紹子さんの二人が、ある意味での「世相」をリードした。この二人に共通しているのは、どちらもオピニオンリーダーであると同時に。オウムに襲撃された被害者であることです。この被害者の視点が社会の多数派の主語となり、安易な二分化が促進されました。

伊東 被害者意識で簡単に「世論」は先鋭化してしまう。「私たちは被害者だ」と先にメディアでキャンペーンしたサイドが「同情」を買って判官贔屓情状酌量を全部持ってゆく。加害者とされた側には簡単に悪者の烙印が捺せる。

ところで

 小説の中の相棒のモデルには、小さい頃手品で驚かせた従姉の思い出も入っているのかなぁ。
従姉のblogより  http://perrods.exblog.jp/3817030

いとこのけんちゃん(伊東 乾)は私より
ひとまわり以上も若く、子供の頃は
ずっと年上の私たち姉妹を相手に手品をするのが得意で
子供なのに確かプロのマジシャンに習っていたと思う。
そしてそのころからとても難しい事を言っていた記憶がある。